1cmの幸せ

私の少しの幸せを貴方に届けましょうか

「うう寒い」
 寒空の下で吸う煙草は抜群に旨い。
 とか何とか云いながら寂しがる片手を衣嚢に突っ込む上司、それもわたしの外套だ、彼はくの字に曲げた痩躯を小刻みに揺らし、「いや一寸あのそこわたしのホッカイロとハンカチが」確かに呈した筈の苦言にも上の空、「あったけえ」至福そうに呟く。因みに貴重なその暖を奪われたわたしは寒い。この凍て付くような乾風が吹き荒ぶ屋外に有りながら度し難い住居侵入罪の渦中にある。現行犯逮捕と共に余罪の追及が急がれる。
「おーい織田作さーん」
「ぬくい」
「そりゃ他人の懐であったまったホッカイロは嘸かしあったかいでしょうよ」
「うまい」
「一服付き合えって煙草辞めたばっかりなんですけど厭味ですかそうですか」
「吸うか」
 したり顔で吐き出された煙が鼻腔でとぐろを巻く。善良なる民の無辜の肺を穢すとは何たる悪行! 鬼! 悪魔!  悪鬼じゃん!
 否応無く屠殺される鶏宜しく悲痛な声で悶絶したわたしは、「ていうか会合間に合うんです」窄めた口から白い輪っかを吐き出す彼と腕時計とを見比べた。今日は午後から二件、傘下の商業施設の管理者たちとの会合を予定している。我々地下組織の活動資金ともなる大切なみかじめ料の相談とその他諸々、兎にも角にも節目節目で開かれる大切な会合なのだ。前期は二日酔いの上司がすっぽかしにすっぽかしたお陰で何故かわたしだけが教祖様のお咎めを受けた。
 君がしっかりしてくれなきゃ、だなんてわたしは保母さんか。お母さんか!
「信号無視すりゃ間に合う」上司は云う。
「あの、一応指名手配犯ですよ我々」
 クリーンさを取り戻し始めた肺を死守するべく顔を背けたわたしは携帯を取り出し、「一先ず先方には遅れる旨のメール打っとくんで、あの、織田作さん、お願いですからぱぱっと吸ってぱっと急ぎましょう」ね? と念を押すと副流煙で返事をされた。否か応かも判らぬ。わたしには判らぬ。織田作さんの凡てが判らぬ。
 如何わしく蠢く衣嚢と其処に伸びる腕を睨み付けたわたしに、「あったけえなあ」温泉に浸かるご老人のような感嘆を漏らす彼。まあそうでしょうね、佳きかな佳きかな極楽かなでしょうね。因みにわたしはとても寒い。カチコチのバナナアイスほど凍て付き悴んだ此の指先で液晶端末に罅を奔らせる事などきっと容易いだろう。
「寒いいいいいいいい」
「あん? 手前、寒ィのか」
「だからそうだって、」
「ほら」…………え?
 おら、じゃなくて。
「此れであったけえだろ」
 いや何で衣嚢の中で手え繋いでるんだァアーーーッとってもあったかいです。
「織田作さんそういうとこありますよね……」
「厭なら手前が抜け。此処は俺の家だ」
「ホッカイロも衣嚢もわたしん家です」
「じゃ問題ないなあ。お前の家は俺の家だ」
ジャイアン!」
「チャンプルーに合うのは」
「ゴーヤだけっす!」
 お後が宜しいようで──否、今ので体感温度が推定五度は下がってしまった。此れが長年の付き合いの中で習得せし奥義・ゴーダタケシコンボの威力である。毎度の事ながら自分で云っといて居た堪れない。
「織田作さん体温高いですね」
「心があったかいからな」
「えっ」
「えっ」こ──此奴、新たな重ね技を!?
 フィルター数糎の白を残し指の間で燃え尽きたそれを見、「な、なんでやねん……?」何故か疑問形になってしまった。無念。謎の敗北感に蹂躙され後三日は立ち上がれそうに無い。
 其処はきちんと携帯灰皿に吸殻を落とした彼は他人の外套の中で絡めたわたしの右手をにぎにぎと握り直し、「お前の手はしゃっけえなあ」「しゃっけえ?」「昔知り合いがよく云ってたんだよ、いいや、今の忘れろ」なんでやねん。云ってる傍から忘れろだなんてしゃっけえ話そりゃあ無理ってもんですよ。
「わたしの手はそんなしゃっけえですか」
「しゃっけえ」
「織田作さんの手はしゃっけくないですよ」
「まあ手袋してるししゃっけくねえだろ」
「ご飯でも食べ行きましょうか」
 冷えた携帯が引っ切り無しに顫えている。
 織田作さんは口の端だけを歪めて器用に微笑し、「酒も飲める処な」攫ったわたしの片手を強く引いた。本当に困った人だ。因みに後で聞いた話、しゃっけくねえはとんだ誤用である。正しくは「しゃっけくねじゃ!」又は「しゃっけくね!」と語気強く織田作さんの右側頭部を全力で叩き込むのが正解らしい。合わせ技としては「わいおめなんぼかんつけだ顔しちゅんず!」と矢張り強い語調で力み助走を付け織田作さんの膝を背後から一息にカックンするのが一番しゃっけえらしい。
 その知り合いこの人に絶対に嘘ついてる。

 

ねえ織田作さん知ってます? 何を。
 かくれんぼの途中で鬼が勝手に帰ると監禁罪になるんですって。 何それ?
 わたしも昔されたことがあって。今頃は彼、刑期を終えて釈放されてますかね。 止めろよ酒がしょっぱくなるだろ! つかマジかよそれ。
 あとまじって言葉は江戸時代からあるそうですよ。これまじなやつ。 そりゃ嘘だろ、ってマジなのかよ。
 まじまじ。処で織田作さんそれわたしのグラスですよ、まじ。 マジかよ。
 まじ間接キスですからそれ。 ああ? 何か問題でもあるのか。
 織田作さんまじそういうとこありますよね。

 

「親爺さんメンチカツと生ひとつ!」
「オイお前未だ食うのかよ太るぞ」
「いざとなったら織田作さんの力で」
「? また体重計か?」
「胃袋のたべものを直腸まで落とす」
「食うのかよ!!」
 耳まで茹で上がった真っ赤な顔をくしゃくしゃに歪めて笑う。「お前は昔ッから食い意地だけは張るよなあ」
 いやあそんな張って無いと思うけど。でも昔、確かにメンチが如何とかメンチカツが如何とか云う事が有ったかも知れない。でもそれは今関係ないし。と云うか巫山戯てやったかくれんぼの鬼放り投げて放置したのその頃の織田作さんだからね。歴とした監禁罪だからァア! でも此れは後の余罪追及の席で切り札として取って置こう。今日の処は住居侵入罪で赦して置いてやろう。此れに道路交通法違反が加わらなくて本当によかったと内心よっぽど安堵していると、小一時間は顫えっ放しだった携帯がとうとうぴたりと沈黙した。
 見ればへべれけの織田作さんが、「んだよ此れ骨が多過ぎんぞ」とか何とか呟きながら見慣れた何かをバキボキに解体していた。醤油まで垂らしていた。節子それ焼き鯖ちゃう。わたしの携帯やで…………!
「織田作さんもう帰りましょう潮時です」
「五月蝿ェ未だ飲み足んねーんだよ、おらッ、とっとと有り酒持って来い」
「やめてえええ此れ以上せっちゃんを増やさないで!! あと上司が破壊した携帯は経費で落ちますかこれ!!」
「んなこた知るかよ」
「ああああの織田作さん一張羅に醤油!! 醤油垂れてますからァア!!」
 その一着でここら一等地の海が見えるナントカタワーそれも十階以上で日当たりも良好な4LDK夢のような物件の家賃を凡そ三月分くらいは余裕で払えるであろう値段の御召し物、真逆、まさかその衿元にべったりと染みを作っているのが白昼でも商っている安い居酒屋の安い醤油だと知れたら──わたしだったら翌日、恐らく絶対まともに息をしていない。
 彼の精神衛生を守る為、此処はこっそり脱がせて翌日クリーニング? 否待て早まるなわたし、第一替えの服も無いのに如何やって? そうだ、ホッカイロと一緒に何時も持ち歩いているハンカチが有るじゃあないか、そう、外套の衣嚢の中、……あった! ほかほかにあったまってるハンカチあった! アレッて云うか抑も此れ、ずっと前に織田作さんから貰った、

「んなモン未だ持ってんのか」
 へべれけの織田作さんがへらりと笑う。「あんたも大概な物好きだよなあ」
 もうずっと昔から変わらない、笑うと目尻が釣り上がる処とか片方の口の端だけが緩む処とか。笑うと案外子供っぽい事はこの歳になる迄知らなかったなあなんて場違いな事を一人ごちるわたしは、と、不意に鼻先を掠めた熱に吃驚仰天し半ば反射的に目を瞑ってしまった。あったかい。というかうわっめっちゃ酒臭い。煙草臭い。あっ自分か。それもそうかあ、…………煙草?
「それ。好い加減、新しいの購ってやるよ」
 一際強いアルコールに目が眩む。
 と云うか織田作さん、何でそんな近距離決めてるんですか。メンチ切られてるんでしょうかわたし。如何してそんなドヤ顔してるんですか。いやあと何でわたし公衆の面前でキスなんてしてるんだァアーーーッだいすきです。